この映画は、
「モディリアーニの伝記映画」ではなかった。
もっと正確に言うと、
表現者が“値踏みの世界”から降りる瞬間を描いた映画だった。
だから、
刺さる人には異様なほど刺さるし、
何も起きない人には、何も起きない。
私は前者だった。
物語は1916年、戦時下のパリ。
評価されない画家アメデオ・モディリアーニの、たった72時間を描く。
売れない。
認められない。
仲間はいるが、孤独。
そしてある瞬間、
彼は自分の作品を窓から放り投げる。
怒りでも、絶望でもない。
むしろ、安堵に近い表情。
値踏みされる視線から、
一瞬、解放される。
そのあとに始まるのが、
「売るつもりのない彫刻」だ。
ここが、この映画の核心だと思う。
売るためじゃない。
評価されるためでもない。
説明するためでもない。
ただ、作り始める。
すると皮肉なことに、
そこに投資家が現れ、価値を付けようとする。
でもそれは、
作品の値段じゃない。
在り方のテストだ。
それでも、戻る?
それとも、降りたままでいる?
モディは拒否する。
そして境界線を引く。
あの瞬間、
彼は“評価されない画家”から
市場の外に出た表現者になる。
この映画が強烈なのは、
これを「成功物語」にしないところ。
報われないまま終わる。
未来は保証されない。
でも、始まってしまう。
映画は、
彫刻が始まるところで終わる。
始まりは、観客に見せない。
正しい終わり方だと思った。
そしてこの映画が
私個人にとって“ただのレビュー”で終わらなかった理由がある。
この体験は、
偶然の連なりの中にあった。
- 11月、Instagramで見かけた展覧会、 Johnny Deppの 『A Bunch of Stuff』へ。
- 1995年のジョニデの映画、『デッドマン』(死に向かい、役割が剥がれていく物語)
- そして今回の『Modì』
これ、偶然にしては
線が綺麗すぎる。
Dead Man が
「役割の死」だとしたら、
Modì は
在り方の誕生だ。
しかもこの映画を監督したのは、
30年を経たジョニー・デップ本人。
これは伝記ではない。
彼自身の現在地の告白だと思った。
そして、
ホームページが消え、
値踏みの場から降り、
説明をやめたあとで
なぜか創作と企画が勝手に始まった自分と、
重なりすぎた。
評価されなくていいと安心した時、
やっと、作り始められる。
この映画は、
それを静かに証明していた。
『Modì』は、
芸術映画でも、成功譚でもない。
値踏みを拒否した人間の映画だ。
もし今、
- 認められようとして疲れている人
- 説明することに飽きた人
- でも、作るのをやめられない人
がいたら。
この映画は、
答えはくれないけど、
位置は確認させてくれる。
値踏みの外に出た人間は、
もう戻れない。
でもその代わり、
ちゃんと、始まる。
最後に問いを。
「もし、売らなくていいとしたら、何を作り始めますか?」
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