映画『国宝』感想 ─人生という舞台に立って見える景色


 映画を観たあと、日常が別の風景に見えることがある。まさに『国宝』は、そんな魔法をかけてくれる作品だった。感動を忘れないうちに、この想いを言葉にしておきたい。

あらすじ(一般的な概要)

映画『国宝』は、吉澤亮・横浜流星が演じる二人の歌舞伎役者を軸に展開します。

伝統と革新の狭間で、芸にすべてを捧げる生き様。

嫉妬、友情、愛憎が渦巻く中で、彼らは舞台に立ち続けます。

そこには“国宝”と称されるほどの芸を追い求める者たちの、美しくも過酷な人生が描かれています。

渡辺謙や田中泯らの存在感ある演技も、作品に重厚さを加えています。

3時間という長尺にもかかわらず、映像の美しさと役者の迫真の演技に圧倒され、観客は舞台の袖から覗いているような臨場感を味わいます。

舞台上のきらびやかさだけでなく、その裏に潜む人間模様が濃密に描かれた作品です。


セリフではなく、佇まいが物語る

 この映画は、ある能楽師が人間国宝に選ばれるまでの歩みを描いている。だが、物語の本質は「何を成したか」ではなく「どう生きたか」にある。

 セリフは少なく、静謐で、時に無音。それでも心の奥に響いてくる。主人公の身体ひとつが、時間と伝統と想いを背負っているのが、観ているこちらにも伝わってくる。その佇まい、立ち振る舞い──それ自体が芸になっている。

 私は気づけば、喉がカラカラになるほど没入していた。3時間を長いと感じるどころか、一瞬で駆け抜けたような体感。演技やカメラワークの美しさが当たり前に圧倒的だったからこそ、その先にある「人生の感想」を受け取りたくなったのだ。


 舞台から見える景色

 何度も映し出されるのは、舞台から見える景色──客席、明かり、空間。それを観ながら、私はふと気づいた。

「私たちは、人生という舞台に立っているんだ」

 観客として外から眺めるのではなく、舞台のど真ん中で、自分という芸を生きている。評価されるためじゃない。完璧を目指すためでもない。ただ、美しい景色を、この目で観るため。魂が、それを望んでいるから。


 主人公が国宝となりインタビュアーに「見たい景色は何ですか?」と質問される。「何かを探している」と言った後のシーンに、主人公が過去に見た景色と重なった。

「見たい景色は、もう知っているのかもしれない」──そう感じた。これはまさに、ディスペンザ博士が言う「未来を先取りする感情」に近い体験だった。

 そう、私たちは自分の人生の中で観たい景色を、どこかの過去で目にしているのかもしれない。でもその過去に見た景色は、また違った感情でそのとき目にするのだろう。

 改めて「私が見たい景色は何だろう?」と問いがたった。


人間臭さこそが最高の輝き

 SNSに並ぶようなキラキラした瞬間よりも、この映画が描いたのは、汗や涙や嫉妬といった"人間臭さ"の積み重ね。その泥臭さこそが、舞台上で光に変わっていく。

 私は毎日21年間ブログを書き続けてきた。その中で描いてきたのも、決してきれいごとばかりではなく、葛藤しながらも続ける「生き様」そのもの。だからこそ、この映画が示した「人間臭さの美学」に深く共鳴した。

 "ただ続けてきた"という事実は、言葉にすれば地味だし、誰に称賛されるわけでもない。だけど『国宝』を観て気づいたのは、私のこの「継続」という軌跡も、ひとつの芸であり、生き様だったということ。今年は、約20年分の体験を自叙伝として、3冊の本にまとめた自分を少し誇らく思わせてくれた。もう「生き様」を持っていたと認められた。私も自分の人生の舞台から見える景色をもっと楽しめばいいんだ。


この映画は教えてくれる。

「あなたの舞台は、すでに始まっている」
「そしてあなたは、その舞の達人である」


 『国宝』は、ただの映像美や演技の映画ではない。それぞれの観客に「あなた自身の舞台はどうですか?」と問いかけてくる作品。


 ラストシーン。

 当初、国宝になったときのインタビューで「これから見たい景色は?」と聞かれ、「何かを探している」とだけ語っていた主人公が、最後に呟いたひと言──「綺麗やなぁ」。

 それは、言葉にできなかった“何か”を見つけた瞬間であり、失われていた感覚や“見る心”を取り戻した証だったのだろう。 

 その瞬間、私は気づいた。

 人それぞれが、人生の舞台の上から見える景色を見ているのだと。「きれいだな」というために。その瞬間、涙が溢れた。これが「国宝」体験だ。

 それは芸を継続した先にしか見えない景色かもしれない。でもどこか既視感があって、「あ、これだったんだ」と胸の奥で思い出すのだろう。