AIを使って、かなり文章を書いている。
音声入力を使うと、その時の熱量のままに話せる。話したことを整理してもらう。構成を作ってもらう。
最近は、まずAIにインタビューしてもらい、その対話から記事を起こすことも増えた。「あなたの文章薄い」とAIにフィードバックした日から、この活用法に今さら気づいた。(笑)
しかし、AIに記事を書いてもらうと、私はほぼ毎回、ある種の文章を消している。
「私が面白いと思ったのは、ここからだった」
「それ以上に印象に残ったのは〜」
「私が気づいたのは〜」
見つけると、だいたい消す。
先日とうとうAIに言った。「私は最近、とか、私は面白いと思った、とか、こういうのやめよう。いつも消してるから」
そこから、AIとの妙な議論になった。
長くセッションをしている人から、以前から望んでいたことが実現したと聞いた。私は嬉しかった。これは書く。何年も聞いてきた話で、準備も、うまくいかなかった時期も知っている。実現したと聞けば、当然嬉しい。
「ずっと聞いてきたことだったので、私も嬉しかった」
これは普通に記事に入る。
なのに、
「夢が叶ったことも嬉しかった。でも、私がそれ以上に面白いと思ったのは、その後の出来事だった」
とAIが書くと、消したくなる。
同じ「私の感情」のはずなのに、何が違うのか。
「嬉しかった」は、その場で実際に起きたことだった。相手から報告を聞いた。私は嬉しかった。事実の一つとして、そこにある。
「私が面白いと思ったのは、ここからだった」は、そうではない。これは読者に「ここからが重要です」と教えている。書き手が文章の外側から出てきて、案内している。
私はこれを、ほとんどやらない。
同じセッションで、相手を取り巻く現実がすでに変わっているのに、本人はまだ以前の自分を前提に話している場面があった。別の見方を伝えると、相手は「あ、そうか」と言って笑った。
「現実はすでに変わっていた。本人の認識だけが、一つ前の場所に残っていた」
これは私の解釈だ。事実そのものではない。それでも、「私はここが非常に興味深いと思った」とは書かない。解釈は書くけれど、「いまこの出来事をこう解釈しています」という実況はしない。
出来事と観察を置く。そこから見えたことを書く。読者がどこに反応するかは、読者に残しておく。
考えてみれば、私はその書き方をずっとしてきたのだけれど、何百回も削除キーを押しているうちに、自分の中にずっとあった編集の原則に、言葉のほうがようやく追いついた。
AIは文章を書いてくれる。そして、ときどき、自分が何を書かない人なのかまで教えてくる。
「どう読むべきか」の指示だけは、相手に余白を残したい。
0コメント