ドルビーでも凄かった『オデュッセイア』——帰るとは、記憶を取り戻すことだった

『オデュッセイア』を観る前、私はひとつ勘違いをしていた。

新しくできたTOHOシネマズ大井町でチケットを取り、料金も通常より高かったので、てっきりIMAXだと思っていたのだ。

ところが購入したあと、ふと気になった。

「あれ、大井町ってIMAXあったっけ?」

ChatGPTに聞いてみると、大井町にIMAXはないという。私が購入したのは、ドルビーシネマだった。

やっちまったー、と思った。

ノーランが全編をIMAXカメラで撮影した作品なのだから、どうせならIMAXで観るべきだったのではないか。そこで、IMAXとドルビーシネマでは何が違うのか、またChatGPTにいろいろ聞いてみた。

IMAXは、巨大なスクリーンによって視界全体を映画の中へ持っていく。一方のドルビーシネマは、黒の深さや色彩の鮮明さに加え、ドルビーアトモスによる立体的な音響で、空間そのものをつくる。

そういえば、英語の先生が「IMAXはスクリーンが大きく、湾曲しているので、自分は普通のスクリーンで観る」と話していた。私自身も映像酔いする可能性がある。

それなら、もしかしてドルビーシネマで正解だったのではないか。

ChatGPTと話しているうちに、「やっちまった」は、いつの間にか「これが最適解だったのかもしれない」に変わっていた。


そして実際に観終わって思った。

ドルビーシネマ、すごすぎた(笑)。

暗闇の深さも、海や戦闘の音圧も、怪物が迫ってくる気配も、全身に届く。とりわけ魔女の場面は気持ちが悪すぎて、細く開けた指の隙間から観ていた。

あれをさらに巨大なIMAXの画面で浴びていたら、私は耐えられなかったかもしれない。結果的には、本当にドルビーシネマでよかったのだと思う。

そんな少し間の抜けた始まりから、約3時間に及ぶ帰還の旅が始まった。


※以下、物語の核心に触れています。

クリストファー・ノーラン監督の『オデュッセイア』を観た。

上映時間は約3時間。それなりの覚悟をして座ったのに、不思議なほど長さを感じなかった。島から島へ流れ着き、怪物や魔女や死者に遭遇しながら故郷を目指す。物語の筋そのものは、これまでのノーラン作品に比べると、かなり追いやすかったように思う。

『インセプション』のように夢が何層にも重なるわけでもない。『TENET テネット』のように時間が逆行するわけでもない。戦争が終わり、海をさまよい、家へ帰る。大きな流れは一本道だった。

ただ、観終わってあらためて考えてみると、今回ノーランが複雑にしたのは時間ではなく、記憶だったのかもしれないと思う。

最初に圧倒されたのは、物語の意味よりも先に、映像そのものの重さだった。巨大なトロイの木馬が砂浜を進む。人々が綱を引き、足を取られながら砂丘を越えていく。その動きにCG特有の軽さがほとんどなくて、あとで調べたら、実際に高さ約10メートル、重さ約3.6トンの木馬をつくり、約250人の俳優とスタントパフォーマーが引いていたのだという。

船も筏も本物で、海上の場面の多くも実際の海で撮られている。出演者たちは自分で船を漕ぎ、帆を扱い、波に揺られていた。共演者が次々と船酔いするなか、マット・デイモンだけは平然としていたらしい。50代半ばであの身体をつくり、本物の海に入り、筏に乗り、戦い続ける。ハリウッド俳優の仕事というのは、演技だけを指す言葉ではないのだと、あらためて思う。

同時に感じたのは、ノーラン自身の執念だった。「本物に見える映像」をつくるために、CGを精巧にするのではなく、本当に巨大なものをつくり、本当に海へ出て、本当に人を濡らす。観客がその舞台裏を知らなくても、画面には確かな手ざわりが残ってしまう。だから私は、木馬の重さも、海の冷たさも、船の揺れも、かなり身体的に受け取っていたのだと思う。

けれど、そのリアルさは心地よいものばかりではなかった。人を食う巨人。家の中から伸びてくる手。魔女の場面で起きる、人間の身体の異様な変化。とりわけ魔女の場面は本当に気持ちが悪くて、私は細く開けた指の隙間から画面を見ていた。

しかも今回はドルビーシネマで観た。暗闇の深さも音の圧力も容赦がない。人が襲われる音や、何かが身体へ迫ってくる気配まで、全身に届いてしまう。映像が本物に感じられたからこそ圧倒されたし、本物に感じられすぎたからこそ、気持ち悪さからも逃げられなかった。この二つは、たぶん同じことなのだと思う。

映画のあと、気になった場面をChatGPTに一つずつ尋ねてみた。トロイとは何だったのか。木馬の中には何人いたのか。なぜ、あの女性が何度も現れたのか。冥界で、なぜ死者たちが地面から現れたのか。島でオデュッセウスが夢中で食べていたロータスは何だったのか。

最初からテーマを分析しようとしたわけではない。ただ、自分の中に残った違和感や疑問を、順番に置いていっただけだった。すると、ばらばらに見えていた場面が、少しずつ一本につながっていく。

ゼンデイヤが演じるアテナは、オデュッセウスを導く女神であると同時に、トロイで殺された巫女の顔でもあった。本当に神だったのかもしれないし、あるいはオデュッセウスの罪悪感がつくり出した幻だったのかもしれない。映画はその答えを決めない。ただ、オデュッセウスは彼女の顔から逃れられない。木馬によって始まった虐殺を、止めることなく見ていた自分。その記憶が、女神の姿を借りて何度も現れてくる。

冥界から現れたシノンも、彼が置き去りにしてきた罪の一つだった。木馬の作戦を成功させるため、オデュッセウスはシノンに「これはアテナへの贈り物だ」と信じ込ませる。シノンは自分が味方にも騙されているとは知らないまま、本気でトロイの兵士たちを説得し、殺された。帰る方法を聞くために冥界へ行ったオデュッセウスは、まず、自分が死なせた者たちの声を聞かなければならなかった。

ここまで考えたとき、『オッペンハイマー』とのつながりが見えてきた。

オッペンハイマーは、戦争を終わらせるために原爆をつくった。オデュッセウスは、10年続いた戦争を終わらせるために木馬を考えた。二人とも、自分の手で全員を殺したわけではない。それでも、その知性によって、大量の人間を殺す仕組みを完成させてしまった。

「できること」と「やってよいこと」は、同じではない。一度つくった仕組みは、つくった本人の手を離れ、世界を変えてしまう。オッペンハイマーが最後に核兵器の連鎖を見るように、オデュッセウスもまた、木馬から始まった破壊を繰り返し見ている。そう考えると、トロイの木馬は古代の原爆のようにも見えてくる。ノーランは時代も規模も異なる二人の「頭のいい男」を通して、同じ問いを見つめていたのかもしれない。

仲間をすべて失ったオデュッセウスは、カリュプソの島へ流れ着く。そこで傷を癒やされ、食事を与えられ、ロータスを食べ続ける。ロータスは、過去の記憶と、故郷へ帰りたいという意志を薄れさせていく。あれは今思えば、薬物のようだった。

食べているあいだは、戦争も、死なせた仲間も、妻も息子も思い出さずに済む。苦しみから解放される代わりに、自分が誰なのかまで失っていく。カリュプソの島は、永遠に休める場所であり、永遠に人生へ戻れない場所でもあった。

それでもオデュッセウスは記憶を取り戻し、自分で筏をつくって海へ出る。そこで初めて、これは単に家へ帰る物語ではないのかもしれない、と思った。帰るとは、場所へ戻ることではない。痛みも罪悪感も含めて、自分の記憶を取り戻すことだったのかもしれない。

誰にも扱えなかった弓を、オデュッセウスだけが静かに張る。私はあの瞬間がものすごく好きだった。

王冠や肩書きではなく、身体に深く刻み込まれた技によって、「この人こそが本物だ」と証明される。ロータスによって頭の中の記憶は揺らいでも、20年経っても、身体に染みついた記憶は消えない。誰かが王座を奪うことはできても、その人間が生きてきた時間や身体の記憶までは、決して代替できないのだと思う。

そのあと求婚者たちを次々と倒していく場面は、もう単純に爽快だった。本物が帰ってきた。「やっと来た」と思った。

そして最後、彼は王座を息子に託し、ペネロペと共に再び西へ向かう。死んでいった仲間たちを弔うための旅へ。

私はあの最後を、それほど難しく考えなかった。20年も離れていたのだから、これからは二人で過ごせばいい。死んだ仲間たちを弔いながら、その人たちの分まで生きていけばいい。失った時間は戻らない。でも、これから二人で過ごす時間はある。

なんだ、ちゃんとハッピーエンドじゃないか。そう思った。