『Picasso meets Paul Smith』を見てきた。
最初は、ポール・スミスがピカソにインスパイアされて何かを作った展示なのだと思っていた。
でも実際は違った。
帰宅後にポール・スミス本人の解説動画を見て、さらに確信した。
彼はほとんどピカソの話をしていない。
もちろん作品には触れている。
でも彼が語っているのは、
ストライプの部屋。
緑の部屋。
花柄の部屋。
床。
色。
導線。
空間。
つまり、
どうピカソを見せたか
なのだ。
ピカソの解説ではなく、体験の設計
普通、美術館の解説というと、
「この作品は1907年に描かれて」
「この時代はキュビスムで」
「アフリカ彫刻の影響があって」
みたいな話になる。
でもポール・スミスは違う。
動画の中で彼は、
「たくさん作品を見ていたら、ストライプが多いことに気づいた」
と言う。
だからストライプの部屋を作った。
「この時代は緑が印象的だった」
だから緑の部屋にした。
それだけなのだ。
でも、それがすごい。
私はそこで初めて、
この人はピカソを解説しているのではなく、
体験を編集している
のだと気づいた。
これは完全にVMDだった
会場に入った瞬間、少し驚いたことがある。
初日だったからか、まだ木材の香りのようなものが残っていた。新しくできたモデルルームや、グランドオープンしたばかりのショップに入った時のような、フレッシュな空気。
美術館というより、新しい店に入ったような感覚があった。
もしかすると、私がこの展示を「VMD」として受け取ったのは、その空気もあったのかもしれない。
作品を見る前に、すでに空間を体で受け取っていた。
展示を見ながら、私は何度も店長時代を思い出した。
アパレルではVMD(ビジュアルマーチャンダイジング)という考え方がある。
商品の並べ方。
ラックの間隔。
色の配置。
導線。
照明。
それによって同じ商品でも売れ方が変わる。
朝と夕方で売場を変えることもあった。
すると常連のお客様が、
「なんか変わりましたね」
と言う。
でも商品は変わっていない。
変わったのは見せ方だった。
今回の展示を見ながら、
私は何度も
「これ、VMDじゃん」
と思った。
気づかないところで効いている
面白かったのは、マネの《草上の昼食》を再解釈した作品が展示されていた緑の部屋だ。
展示を見ている最中は気づかなかった。
ところが終盤で、
「あれ、もう一回あの部屋に戻ろう」
と思って戻った時に気づいた。
床が人工芝だった。
私は知らないうちに芝生を踏みながら作品を見ていたのだ。
ポール・スミス本人も動画の中で、
床材を変えることについて話している。
青の時代の部屋ではカーペットを敷き、
足裏の感覚まで変えていた。
後からNotebookLMの解説を聞いていて、
床の弾力や感触は神経系にも影響すると知った。
なるほどと思った。
私たちは作品を頭だけで見ているわけではない。
色も。
音も。
空間も。
足裏の感覚も。
全部込みで体験している。
天井から吊るされたストライプ
私が一番「ポール・スミスだな」と思ったのは、
ピカソが着ていたストライプシャツの部屋だった。
天井から大量のストライプシャツが吊るされている。
その下に作品が並ぶ。
完全にアパレルショップのVMDである。
ポール・スミスは
「何を覚えて帰るか」
を設計してる人なのかもしれない。
人は作品を見ていない
今回の展示で受け取った一番大きなことは、
人は作品そのものを見ているわけではない、
ということだった。
作品は変わらない。
変わるのは入口だ。
どんな空間に置かれているか。
どんな色に囲まれているか。
何と隣り合っているか。
誰の視点を通して見るか。
それによって同じ作品がまったく違って見える。
だからポール・スミスがやったことは、
ピカソを説明することではなかった。
ピカソへの入口を作ることだった。
私たちは何を見ているのか
展示を見終わったあと、
私はなぜこんなにピカソが面白かったのだろうと考えていた。
そして今ならわかる。
私はピカソだけを見ていたのではない。
ポール・スミスの編集を見ていたのだ。
もっと言うと、
人間が何によって世界を見ているのか
を見ていた。
作品は変わらない。
でも文脈が変わると世界は変わる。
そしてその文脈は、感覚的なものではなく、
作り手の意図がある。
それは美術館でも。
お店でも。
AIでも。
人生でも同じなのかもしれない。
🎥 参考動画
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