先日書いた角野隼斗さんの記事は、思いがけず多くの方に読んでいただきました。
でも、少し時間が経って振り返ってみると、私が本当に受け取ったものは別のところにあった気がしています。
それは、文章というものへの希望でした。
私はずっとブログを書いてきました。気づけば22年以上になります。
店長時代も書いていたし、独立してからも、仕事のこと、人生のこと、旅、体験の感想を書いてきました。
その間に時代は大きく変わりました。ブログの時代があり、SNSの時代があり、YouTubeの時代が来た。最近ではショート動画が当たり前になりました。
「長い文章を読む人は減っていくのかもしれないな」と思ったこともあります。
でも今回、いただいたコメントを読んでいて、改めて気づいたことがありました。
それは、文章には動画とは違う良さがあるということです。
動画を見ることが当たり前になった時代に、文章はどうなるんだろうと思うことがあります。
私自身も動画を上げることがあります。山の風景だったり、旅先の景色だったり。でも不思議なことに、私が作る動画はいつも説明がない。ただ風景を映しているだけになります。
なぜだろうと思ったら、たぶんそれは私がブロガーだからなのだと思います。
文章を書く人間は、余白を残したくなる。説明しきらない方が、受け取る人の中で何かが生まれると知っているから。
最初は「角野隼斗さんの記事だから読まれたのだろう」と思っていました。もちろん、それは大きかったと思います。
でも届いた感想を読んでいるうちに、少し違うものが見えてきました。
感想の多くは、角野さんそのものではなく、文章や、見方について書かれていたのです。
「そんな見方があったとは」
「言語化ありがとうございました」
「芸術って、評価するものじゃなく受け取るものなんだなとあらためて」
「言葉の花束みたいでした」
どれも、演奏そのものへの感想というより、私がどう受け取ったか、その受け取り方への感想でした。
文章には余白があります。
読む人は、ただ情報を受け取っているわけではありません。自分の記憶と重ねたり、自分の感覚を思い出したりしながら読んでいる。だから同じ文章でも、人によって見える景色が違う。
私は今回、そのことを改めて教えてもらった気がします。
そしてもう一つ思ったことがあります。
最近、私は以前よりも芸術を楽しめるようになりました。音楽も、美術もそうです。
昔は感想を書くために必死に調べていました。聞き逃さないように聴いていた。理解しようとしていた。
でも今は少し違います。
まず体験する。まず感じる。わからないことがあったら後からAIに聞く。すると、もう一度その体験を味わうことができる。
そんなふうに楽しむようになりました。
その変化が、今回の記事にも現れていたのかもしれません。知識を伝えようとしたのではなく、私が受け取ったものを書いただけだったからです。そして、その体験を受け取ってくださる方がいた。
「文章を楽しんでくれる人がいる」
ということに希望をもらいました。
動画の時代になっても。AIの時代になっても。
文章だから届くものがある。文章だから生まれる余白がある。
そんなことを改めて感じた出来事でした。
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