音楽が絵を動かす夜。辻井伸行「印象派」コンサートで感じたこと

錦糸町、すみだトリフォニーホール。

葛飾北斎ゆかりの北斎通りにほど近い、このホールで、辻井伸行さんの「音楽と絵画コンサート 印象派」に行ってきました。

何年か前にも同じコンサートに足を運んでいて、今回は再訪。ドビュッシー、サティ、ラベルを中心に、印象派の絵画が大きなスクリーンに映し出されながら演奏が進んでいくという形式です。

知っている曲、知っている絵。それがひとつの空間で重なる。

なんて贅沢な夕べだろう、と思いながら席に着きました。

辻井さんは、目が見えない。

それを知っているから、ドビュッシーの「月の光」や、ラベルの「水の戯れ」を演奏されるたびに、ふと考えてしまうことがあります。

印象派の絵を見たことのない人が、水の音から「水」を想像するとしたら、それはどんな景色なのだろう。

辻井さんが感じている「月の光」は、視覚を経由していない。耳から入り、身体の中で形になっていく。それが音に出る。だとしたら、その演奏には、私たちとはまた違う種類の「印象」が宿っているのかもしれない——そんなことを、弾かれるたびに思うのです。


今回のプログラムはドビュッシーが多め。アラベスク、ベルガマスク組曲(月の光)、映像、喜びの島……。それぞれの曲に合わせて、ルノワールの《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》、《ブランコ》、《テラス》、《ピアノの前の少女たち》などが次々と映し出されます。

オルセー美術館で実際に見た絵。印象派展でも出会った絵。「あ、これ知ってる」という感触があちこちで生まれながら、でも音楽が入ると、なぜかいつもと違って見えてくるのが不思議でした。

脳が、音と絵を勝手に「合っている」と判断するのかもしれない。でもそれだけじゃなくて、音が絵に時間軸を与えるような感覚——静止していた絵が、ほんの少し呼吸を始めるような。


第二部に入ってから、サティの「ジムノペディ第1番」が演奏されました。

実はこれ、私が唯一弾ける曲。だから思い入れもあるし、いろんな演奏を聴いてきました。辻井さんのジムノペディは、感情を抑えた、淡々と進むタイプ。わざと小さい音で「儚さ」を演出するわけでもなく、かといって表情過多でもなく、ただ静かに、平らに流れていく。

そのとき背景に映っていたのが、クリムトの絵でした。

クリムトと、ジムノペディ。意外な組み合わせのようで、でも並んでみると、どこか納得してしまう。金色と沈黙が、同じ体温を持っているような。

サティの音楽は、「聴かせる」というより「場を作る」音楽です。環境音楽の先駆けとも言われるように、主張せず、ただそこにある。だからこそ、スクリーンのクリムトに自然と目が向いていく。繊細な筆致、重なる金色、人物の表情——いつか見たことがあるはずの絵なのに、静かな音楽の中で見ると、初めて気づくものがありました。

ちなみにドビュッシーとサティは、若い頃は毎週のように家を行き来するほどの親友でした。ドビュッシーはサティのことを「今世紀に迷い込んだ中世の優しい音楽家」と評していたほど。でも晩年には仲たがいしたまま、終わってしまった。

それなのに今夜、辻井さんはドビュッシーとサティを同じ舞台で、続けて弾いている。

仲違いしたまま時代に別れた二人が、百年後の東京で、一人のピアニストを通して再会している——そう思ったら、なんだか胸に込み上げるものがありました。


そして、今回いちばん驚いたのが、葛飾北斎でした。

ドビュッシーの「水の反映」に合わせて、北斎の波が現れたとき。

合っていた。あまりにも、合っていた。

実は、ドビュッシーと北斎には深い縁があります。1905年に出版された交響詩『海』の初版スコア表紙には、ドビュッシー自身の希望で「神奈川沖浪裏」が使われました。ドビュッシーの自室にも、その版画が飾られていたとされています。音楽と絵画の間に、もともと橋が架かっていたのです。

私はいま、自分のEtsyショップ「Art-T & Things」で北斎の波をデザインしたばかりでした。だから余計に、目が釘付けになってしまって。

そして、村上隆さんが「北斎の絵は漫画のようだ」と語っていたのを思い出していました。海外の人がそういう文脈で受け取っているのか、と初めて気づいたばかりでもあって。

コンサートのアンコール、ドビュッシーの「喜びの島」。背景に流れる北斎の波。そのとき、波のしぶきが描く水玉が——草間彌生の水玉に見えてきた。

浮世絵の印象が、ガラッと変わった瞬間でした。これはポップアートだ、と。江戸時代に生きた絵師が、そんな目で見られていたとは思っていなかった。音楽があったから気づけたことだと思います。


Column|ドビュッシーと印象派・ジャポニスム

ドビュッシーは、絵画の印象主義からインスピレーションを受け、音楽における「印象主義」という新しいスタイルを確立した作曲家です。光や水、風といった自然界の情景や、人間の内面の曖昧な感情を、独創的な和声と色彩豊かな音色で描き出しました。

ラベルの「水の戯れ」も、印象派の感性が宿る一曲。ドビュッシーはまた、ピアノ曲「金色の魚」を緋鯉が泳ぐ蒔絵の箱からイメージを得て作曲するなど、日本の美術からも深く影響を受けていました。西洋音楽と東洋の美意識が交差するところに、ドビュッシーという作曲家がいます。


そしてもうひとつ、アンコールで思わず笑ってしまったことがありました。

ドビュッシーの「夢」が演奏されたとき、スクリーンに映し出されたのがオディロン・ルドンの絵。

その日、私が持っていたバッグは——自分でデザインした、ルドンのエコバッグでした。(笑)音楽と絵と自分がひとつながりになった瞬間でした。


今回のコンサートは、超絶技巧を競うようなプログラムではありませんでした。でも、だからこそ気づいたことがありました。

実はこのコンサート、演出上、非常灯まで消されていたのです。ある演奏では、ステージの辻井さんのいる場所だけがわずかにライトアップされ、それも驚くほど暗い光の中で、鍵盤に向かっていました。

客席は、ほぼ暗闇。

でも辻井さんにとっては、明るさは関係ない。

この演出ができるのは、辻井さんだからこそだと思いました。暗闇の中でも、絵はスクリーンに輝いている。音楽は鳴り響いている。そしてピアニストは、光の量に左右されることなく、ただ音の中にいる。

クラシック音楽も、印象派の絵画も、ずっと好きで触れてきたものでした。ドビュッシーが印象派からインスパイアされたことも、知識としては知っていた。

でも、スクリーンに映し出されたのが、美術館で実際に見たことのある絵ばかりだったのです。知っている絵が、知っている音楽と重なる。それが思いのほか、グッと来ました。

頭で「つながっている」と知っていることと、その場で感じることは、やっぱり違うものだと思いました。

アンコール3曲を終え、満面の笑みで、手を振りながら舞台の袖へ。

また辻井さんは、ファンを作ったに違いありません。(笑)

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