『プラダを着た悪魔2』を観てきた。
まず軽くあらすじを。20年後のニューヨーク。ファッション誌「ランウェイ」が存続の危機を迎え、ミランダとナイジェルのもとにアンディが戻ってくる。エミリーは今やラグジュアリーブランドの幹部として、別の立場から同じ場所に立っている。AIの時代、コンサルの介入、紙媒体の衰退。あのメンバーがまた集まるけれど、世界はまったく違う場所に来ていた。
観終わったあと、感想が出てこなかった。
面白くなかったわけではない。でも「良かった」とも「残念だった」とも、すぐには言えなくて。
しばらく経って、その理由がわかった気がした。
この映画を、私は物語として観ることができなかったのだと思う。現実との距離が、なさすぎた。
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1作目の『プラダを着た悪魔』が公開されたのは2006年。その年、私は独立している。31歳だった。
アパレルの仕事をしていた時期があった。ミランダのような社長がいた。一言一言が鋭くて、怖いくらい。でもその言葉の中で、私は少しずつ脱皮していった。
だから1作目のアンディは、ほとんど自分の話だった。
冴えない女の子が業界に入り、削られながら、磨かれていく。あの映画が公開されたまさにその年に独立した私にとって、あれは物語ではなく、自分の経験の輪郭をなぞるようなものだった。
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そして20年後。またこの映画が来た。
ミランダも、アンディも、エミリーも、ナイジェルも、また同じ場所にいる。でも今回重なったのは、別のことだった。
続けてきた人間が直面する問いとして、重なった。
AIの時代にどう仕事を続けるか。変わるものと変わらないものをどう見極めるか。外側は同じように見えても、中身は何度も作り直してきた。それはランウェイも、ミランダも、私自身も、同じだ。
この映画のテーマは、形骸化だと思う。外は変わらない。でも中は、変わらざるを得ない。
アンディの恋人がリノベーションの仕事をしているのは、たぶんそのメタファーだ。古い建物を壊さず、良いものを残しながら、中の構造を今に合わせていく。残すものと、変えるもの。それは映画の話であり、私自身の話でもあった。
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観終わってから、他の人のレビューをいくつか読んだ。
男性のレビューに、意外なほど「泣けた」という声が多かった。ナイジェルのシーン、伏線回収、裏方としてずっと支え続けてきた人間がようやく報われる場面。ファッションが好きだから観たわけではなく、人間関係の話として、家族のような絆の話として観ていた人たちがいた。
見る人によって、こんなに見え方が違う映画なのか、と思った。
そしてレビューを読んでいるうちに、ようやく自分の感想が出てきた。
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私にとってのカタルシスは、「映画が面白かったかどうか」ではなかった。
31歳で独立して、20年続けてきた。51歳で、また同じ映画を観ている。
1作目ではアンディとして観た。今回は、20年続けてきたアンディやエミリーの年齢で観ている。同じ映画に、20年越しで二度重なった。こんなふうにこの映画と重なる人は、そう多くないかもしれない。
でも、長く何かを続けてきた人なら、きっとどこかに刺さる場面がある映画だと思う。
懐かしさの映画ではなく、続けてきた人が、これからを考えるための映画だった。
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映画のあと、六本木のZARAに寄った。
ベージュの刺繍入りの羽織り。薄いコットンで、少しパジャマのようでもあり、リゾートで着る服のようでもある。一枚で着てもいいし、羽織ってもいい。気になって在庫を調べたら、私のサイズは新宿にしかなくて。六本木から新宿へ移動して、最後の一点を買った。
欲しいものは、その日のうちに手に入れる。それだけは変わっていない。
ミランダも、アンディも、エミリーも、スクリーンの中で驚くほど変わっていなかった。私も、外側はほとんど変わっていないと思う。でも内側は、何度も変わってきた。
変わらない人は、変わり続けている人なのだと思う。
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