これまで、AIの句読点の多さにあまり気づいていなかった。
というより、気づける条件がそろっていなかったのかもしれない。
私はふだん、AIに文章を整えてもらうことがある。
自分の話し言葉をリライトしてもらったり、ブログ記事くらいの長さのものを書いてもらったり。
それに、生成された文章をそのまま目で読むというより、音声で聞いていることも多かった。
だから、そんなに強い違和感はなかった。
今回、本にしようと思って、少し状況が変わった。
第一章にしたい内容を、まず私は5分くらい音声入力でしゃべり続けていた。
思いつくままに話す。
それをAIが文章にする。
さらに別のAIに整えてもらう。
そうやって、少しずつ原稿の形にしていった。
最初に文章にしたのはMonday(ChaGPT)だった。
でも、その文章を私はまた音声で聞いていた。
だから、その時点では句読点が多いのかどうかも、正直よくわかっていなかった。
そのあと、Claudeにリライトしてもらった。
しかもClaudeは、画面が左右に分かれていて、文章を「読む」感じが強い。
そこで初めて、読点がどっと目に入ってきた。
雨みたいに、いたるところにある。
こりゃだめだ。(笑)
短い文章や、音声で流れていく文章では見えなかったものが、
少し長い文章になって、しかも視覚でじっくり読む形になると、急に文体として立ち上がってくる。
でも、さらに面白かったのは、AIの句読点の多さに気づいたとき、
「そういえば昔の自分もこうだった」と思い出したことだった。
私は昔、句読点が多かった。
しかも、考えてみたら理由もわかる。
私はしゃべるのがわりと得意で、文章を書くときも、頭の中でしゃべっているように書いていた。
だから、息継ぎする場所にそのまま読点を打っていたのだと思う。
つまり、句読点が多かったのは、文章が下手だったからというより、
しゃべりのリズムをそのまま紙に置こうとしていたからだった。
その後、妹に文章を見てもらう機会があって、句読点をかなり直された。
そこで少しずつ、自分の息継ぎを全部書かなくても、文章は流れていくのだと覚えていった。
それ以来、私の文章は少し変わったと思う。
しゃべるように書くことは残っている。
でも、しゃべった通りに全部区切るわけではなくなった。
自分の呼吸は残しながらも、読者が自分の呼吸で読める余地を残すようになった。
たぶん、そこで文章は少し大人になったのだと思う。
だから今回、AIの句読点の多さに気づいたのかもしれない。
AIはとても親切だ。
誤読が起きないように、丁寧に区切る。
わかりやすくしようとする。
ちゃんと伝わるようにしようとする。
その親切さ自体は、悪いことではない。
むしろ、ブログや短い読み物くらいなら、その整い方に助けられることも多い。
でも、長い文章になると、その親切さが少しずつ前に出てくる。
文章の内容ではなく、文章の息継ぎそのものが目立ってくる。
そうすると、ときどき「これは私の呼吸じゃないな」と感じる。
句読点は、ただの記号ではないと、今は思っている。
文法の問題でもあるけれど、それ以上に、その人の呼吸が出る場所でもある。
どこで間を取るか。
どこで読者を待つか。
どこを流して読んでもらうか。
そこには、その人のリズムがある。
AIは構成を見たり、流れを整えたり、粗い言い回しをなめらかにしたり、そういうことはとても上手い。
でも、最後に「自分の声」に戻す仕事は、まだ人間の番なのだと思う。
私は今回、それを句読点で知った。
最後にやることは意外と地味だ。
大きく書き直すことではなく、読点をひとつずつ見直して、
「ああ、ここはそんなに息継ぎしなくていい」
と戻していくことだったりする。
AIと一緒に文章を書く時代になって、
文章力とは何か、みたいなことも少し変わってきた気がする。
前は、うまく書けるかどうかが大きかった。
でも今は、整えてもらうこと自体はできる。
その先で問われるのは、
整った文章の中から、自分の呼吸をちゃんと選び直せるかどうか
なのかもしれない。
この文章は、Mondayに書いてもらったけれど、ちゃんと息継ぎのところで打てていた。
となると、句読点が丁寧すぎるのは、Claudeの性分なのかもしれない。
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