東京文化会館小ホールで、ジャン・ロンドーのチェンバロ・リサイタルを聴いた。
私は今回で3回目のライブ演奏だった。
今回のプログラムは、ほとんど知らない曲ばかりだったので、いつものように事前にChatGPTにプログラムを写して、少しだけ予習をしていた。
17世紀フランスの作品が中心で、「トンボー」と呼ばれる追悼の作品が多いこと。
そして、ルイ・クープラン生誕400年を意識した公演らしいこと。
そのくらいの薄い知識だけを持って会場へ行った。
あとでプログラムを読むと、ジャン・ロンドー自身、この公演の構成をかなり考えていたらしい。
もともとの予定から曲目を変え、ルイ・クープランの作品に同時代の作曲家の曲を加えながら、異なる調で大きな組曲のような流れをつくったという。
しかも今回使われたのは、彼自身がこの日本公演でぜひ弾きたいと望んだ、17世紀フランス様式のチェンバロだった。
そういうことをあとから知ると、あの夜が最初から最後までひとつの作品のように組まれていたことが、少しわかる。
80分、休憩なし。
そして演奏が始まる前に、ホールがほとんど闇になった。
非常口の明かりまで消されて、ステージには炎のような光がふんわりとあるだけ。あとで知ったのだが、これは彼の指示だったらしい。チェンバロは音量も変えられない、動き回ることもできない。だから光だけは、自分でコントロールした。洞窟の中にいるようでもあり、夜の礼拝堂のようでもあり、とにかく、いつものクラシック・コンサートとは最初の条件からして違っていた。
そこに、ジャン・ロンドーが現れる。
相変わらず、髪は長く、髭も豊かで、どこか時代をさかのぼってきたような風貌なのに、動きは驚くほど静かだ。歩き方も、お辞儀も、鍵盤から指を離すときの動きまで、すべてがゆっくりしている。何かを見せるというより、空気ごと壊さないようにしている人の所作だった。
最初のほうは、正直かなり緊張して聴いていた。
あまりにも暗いし、あまりにも静かだし、咳もしたくないし、動きたくもない。客席の気配まで薄くなっていて、そのぶん、隣の人のマナーモードの振動音が妙に大きく感じられたりもする。静けさが深くなると、小さなノイズが逆に浮き上がるのだなと思った。
彼は観客にジャン・ロンドーを見せたかったのではなく、チェンバロの音が消えていく暗さの中へ連れて行きたかったのかもしれない。
チェンバロは、ピアノのような聴き方ができない。
少なくとも私はそう感じた。
ピアノなら、音の塊として響きがやってくるようなところを、チェンバロはもっと細い線のように進んでいく。しかもペダルで響きをふくらませることもできない。だから、一つひとつの音をどう置いて、どう重ねて、どう離すか、そのわずかな違いがそのまま音楽になっているように思えた。
たとえば、こちらはつい「ジャーン」とひとつの響きとして受け取りたくなるところがある。けれど実際には、もっと繊細に置かれた音が、あとから空間の中でひとつになって聴こえてくる。今回、その不思議さをいつも以上によく感じた。
ずっと同じように聴こえそうで、そうではない。
大きな音で押してこないからこそ、音の選び方や置き方に、演奏する人の感覚がそのまま出るのだろうと思う。技術的にすごいのだろうな、というのは、そういう細部から感じた。
前半は、かなり緊張していた。
一つも動けないような感じだった。
でも途中から、少しずつ耳が慣れてきた。
リラックスした、というのとも少し違う。緊張がなくなったわけではないのだけれど、その質が変わっていった感じがある。
最初は「ちゃんと聴かなければ」「音を立ててはいけない」という外側の緊張だったのが、だんだん、音の消え方や余韻のほうに意識が向いていった。チェンバロの音は、迫ってくるわけではないのに、いつのまにかこちらの神経を細くしていく。
予習で、舞曲の種類によって少しずつ空気が変わるらしい、ということは読んでいた。
そして実際、途中で曲調が変わる瞬間があった。ほとんど最後の3分の1くらいだったと思う。そこまで深く静かな緊張が続いていたから、そのわずかな変化が、こちらにもはっきり伝わってきた。
ああ、今ちょっと風向きが変わったな、と思った。
そういうふうに聴けたのは、予習のおかげでもあり、でも同時に、知識で理解したというより身体が先に気づいた、という感じでもあった。
それにしても、不思議な80分だった。
暗い。
時計も見えない。
休憩もない。
しかも今回は、ジャン・ロンドーが何も喋らなかった。前に聴いたときは少し英語で話していた気がするのだけれど、この夜は言葉を挟まず、ただそのまま進んでいった。
それなのに、長いとは感じなかった。
むしろ終わりに近づくほど、終わらないでほしいと思った。あっという間、というのとも少し違う。時間の目盛りが、いつものままではなくなっていた。
ジャン・ロンドーは、終わり方をとても大事にする人なのだと思う。
曲の終わりだけではなく、音の終わり、余韻の終わり、動作の終わり、その全部を急がない。だからこちらも、聴いて終わり、ではなく、その終わりに同席させられる。
アンコールもあった。
ルイ・クープラン《Tombeau de Mr. de Blancrocher》。
もちろん私には知らない曲だったのだけれど、事前に「トンボーは追悼の作品」とだけ聞いていたので、最後にまたその空気へ戻っていったことはなんとなくわかった。華やかに閉じるのではなく、最後までこの夜の温度を崩さなかったのが、いかにも彼らしかった。
終わってみたら、なぜか少しすっきりしていた。
癒やされた、というのとも違うし、感動した、というのとも違う。
ただ、あれだけ静かなものに長く付き合ったあとで、ざわつきが少し引いていた。
客席も少し独特だった。
いつものピアノ・リサイタルより年配の人が多く、しかも男性が多い印象があった。夫婦で来ている人も目についた。チェンバロという楽器そのものを聴きに来ている人たちなのかもしれないし、あの静かな世界に身を置きに来ている人たちなのかもしれない。
クラシックのコンサートは、楽しいとか、感動したとか、そういう言葉で語りやすい。
でもこの日のチェンバロは、少し違った。
楽しむというより、耳の速度を落としていく感じ。
そして、余韻と一緒にそこにいる感じ。
暗い洞窟のようなホールで、細い音だけが残っていく。
その時間に80分付き合っていたら、耳の奥のほうが少し静かになった。
ジャン・ロンドーの演奏は、やはり少し特別だ。
音楽を届けるというより、まず場をつくってしまう。
そしてその場の中で、こちらの聴き方まで変えてしまう。
だから、聴いたというより、いた、に近い夜だった。
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