映画『エディントンへようこそ』──誰にも必要とされない男の末路

⚠️ ネタバレ注意:本レビューは映画の結末まで言及しています


はじめに──一人の男の内面の崩壊として

アリ・アスター監督の『エディントン』について、多くの批評はコロナ禍の寓話、陰謀論への警鐘、分断社会の風刺として語られる。しかし本稿では、そうした社会批判の視点ではなく、「一人の男の内面の崩壊」という、より個人的で心理的な核心にフォーカスして読み解いてみたい。

これは時代の物語である前に、承認欲求と依存心だけで生きてきた人間が、誰にも必要とされなくなるまでの静かな悲劇なのだ。

ちなみに、『One battle after another』に、いろいろ似ているというか、これも1つ事件がはじまると、次々と大惨事へ…。

物語の始まり──正義の役割に生きる男

舞台は2020年5月のニューメキシコ州の架空の小さな町。保安官ジョー・クロス(ホアキン・フェニックス)と市長テッド・ガルシア(ペドロ・パスカル)の対立が物語の軸となる。

物語の冒頭、ジョーは保安官として、自分なりの正義を信じていた。少なくとも、「誰かを守っている人間」だと自分では思っていた。しかし、よく観察すると、彼が信じていたのは正義そのものではなかった。「誰かに必要とされている自分」という幻想だけだった。


崩壊の始まり──妻の告発

ジョーがSNSで虚偽の告発を行い、市長が妻ルイーズ(エマ・ストーン)と不適切な関係にあったと主張すると、ルイーズ自身が公に「夫の発表は虚偽だ」と否定する。

この瞬間、ジョーは「正義の側」から完全に転げ落ちる。彼は悪を暴いたのではなく、承認欲求のために物語を捏造した人間として露呈した。そしてルイーズは彼のもとを去り、カルトに加わってしまう。ジョーは、守るべき対象を完全に失う。


殺人者への変貌

ジョーは怒りに駆られて市長テッドと息子のエリックをライフルで殺害し、その犯行をBLM運動の抗議者たちに偽装しようとする。ジョーは現場の証拠を回収し、BLMに触発された声明を残して捜査官を欺こうとした。

この殺人が、ジョーの人生を完全に逆走させる分岐点となる。映画中で誰かが発する「Wrong way(逆走してる)」という言葉は、交通の注意ではなく、人生そのものへの警告だった。


コロナ禍という分断の舞台──それぞれの世界線

映画は2020年のパンデミック初期という、感情も正義もオンラインで消費される時代を舞台にしている。市長ガルシアは感染例がまだない段階で予防的にロックダウンとマスク着用を義務化し、これがジョーの神経を逆なでする。

義母のドーン(ディアドリー・オコネル)は陰謀論を信奉し、ルイーズも次第に不安定になっていく。そしてアスター監督自身が語るように、登場人物たちは「世界に何かが間違っていると感じている」が、その感情が歪んだ形で現れていく。

ここで重要なのは、登場人物がどんな思いを抱えているか、誰がどの情報を観ているかによって、それぞれ異なる世界線を生きているという点だ。ジョーにとっての「真実」、ドーンにとっての「真実」、ルイーズにとっての「真実」は、すべて違う。同じ町、同じ時間軸にいながら、彼らは交わらない複数の現実を生きている。この映画は、その分裂そのものを描いている。


空虚な勝利──市長になった植物人間

物語の最後、ジョーは襲撃者によって頭部を刺され、重度の脳損傷を負いながらも生き延びる。車椅子に座り、話すことも動くこともできない状態になる。

にもかかわらず、ジョーは市長に選出される。しかし彼は、ほとんど反応できず、義母のドーンが彼の代弁者となり、彼の沈黙を利用して自分の極端な政治的イデオロギーを推進していく。

「役職だけが残った空っぽの人間」になっている。彼は誰の役にも立てない。しかし、家はやたらと広い。ただの象徴として、そこにいるだけだ。

ドーンはジョーと一緒のベッドに寝ているが、夫としての役割は介護者によって果たされ、ジョーは無力に横たわるだけ。ここにも、愛はない。役割と依存だけがある。


データセンターという皮肉

映画の最後のショットは、砂漠に巨大にそびえ立つ新しく建設されたデータセンターを映し出す。これは市長ガルシアが推進していた「テクノロジー志向」の町の未来の象徴だった。

人々の声、怒り、恐怖、分断。それらを処理する巨大な箱が完成する。人々の声、怒り、恐怖、分断。それらを処理する巨大な箱が完成する皮肉。終わらないバトルを予感させる。


この映画が描いたもの

『エディントンへようこそ』は、正義の物語でも、陰謀論批判だけの映画でも、コロナ禍の記録映画でもない。

「依存心を抱えたまま生きた人間の、世界線の末路」を明確に、容赦なく見せる映画だった。

愛されることで自分を保ち、役割でしか自分を定義できず、中身を満たさないまま成功してしまった人間。その結末は、報われたように見えて、最も報われない人生だった。

救いはない。カタルシスもない。ただ、ホアキン・フェニックスの身体と演技を通して、「この世界線は、こういう終わり方をする」と見せられる。

ホアキン・フェニックスという俳優は、人が壊れていく瞬間を、誰よりも誠実に見せることができる。そしてこの映画は、その能力を最も残酷な形で使っている。


最後に思うこと

皆それぞれ、自分を満たさないといけない。肩書きでも、正義でも、誰かを支えているという物語でもなく。

それをしないまま生きると、人生は成功しても、人は救われない。

そして、最終的に誰も交わらない複数の現実が並行して存在する、という現代的な絶望感が表現される。この映画は、その事実をただ静かに置いていく。

設定が「現在」と近すぎる。パンデミックの先の見えない怖さを思い出させるし、AIさえまだ存在しない、つい数年前の世界だ。だから後味が悪い。だが、その後味の悪さこそが、この映画の誠実さなのだと思う。

観終わった直後は、ただ重苦しさだけが残る。けれど時間が経つほど、じわじわと何かが内側に沁みてくる。それは不快さではなく、ある種の問いかけだ。

「自分は何で自分を満たしているのか」

「自分が見ている世界は、本当に世界なのか」

答えのない問いを、静かに投げかけられる。


面白かったかと聞かれたら、答えに困る。救いがあったかと言われたら、なかった。

でも、観なければ見えなかった世界線が、確かにそこにあった。それを見せられた以上、この映画をなかったことにはできない。

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