✦ 北欧のようで、箱根でしかない夜だった。

 夜9時前くらいに、箱根から帰宅した。1泊2日の旅だったのに、まるで何日も家を空けていたかのような感覚が残っている。時間の長さではなく、体験の密度で測られる旅だったのだと思う。

 今回の箱根は、本当に急だった。土曜日の午前、母から「箱根、行きたくなった」と誘いを受け、「1泊2食付き」という条件でいくつかのホテル候補がLINEで送られてきた。

 私はすぐに、その情報をChatGPTに投げた。さらにもう一つ、別のホテルも提案してもらい、最終的に選択肢は二つに絞られた。

・いかにも“日本の温泉旅館”という王道タイプ

・北欧のようにモダンで、朝食に焼き魚が絶対出てこなさそうなホテル(笑)


 そして、結局最初に母が送ってきた「WPÜ HOTEL HAKONE」に決めた。


 決め手はシンプルで、「80歳の母」という設定を一度外したら、私なら迷わずここを選ぶと思えたこと。そして、レビューの評価がとても高かったこと。

 結果――「大満足」だった。


 強羅駅から徒歩1分。

 え、本当にこの先?と一瞬ためらうようなトンネルを抜けると、ホテルにしては小さめな建物がふっと現れる。

 コンクリート打ちっぱなしの壁のエントランス。中に入ると、白い壁にカラフルなアートが点在していて、それぞれに販売価格がついている。ロビーそのものが、小さなギャラリーのようだった。


 部屋はとてもシンプルだった。使われているのは中間色ばかりで、白でも黒でもない、やわらかなグレーやベージュの世界。どこか「ホテル」というより、よく整えられた誰かの部屋に招かれたような感覚になる。

 最近のミニマルデザインのホテルらしく、余計な家具は一切ない。ランプが可愛らしい。クローゼットもなく、服は壁づけのハンガーにそのまま掛けるスタイル。ローベッドが空間を低く、そして広く見せていて、24平米とは思えない開放感があった。

 物が少ないから、空気がよく動く。視線が遮られないから、思考まで静かになる。「何も足さない贅沢」という言葉が、ふっと浮かぶ部屋だった。


 1階はレストランスペース。ヤシの木のような観葉植物、北欧風の木製チェア、ソファ席。とてもコージーな空間で、日本にいながら、どこか海外のブティックホテルに来たような感覚になる。実際、宿泊客もスタッフも外国人の方が多く、日本語がほとんど聞こえない不思議な夜だった。

 夕食は創作料理のコース。黒い石のプレートにずらりと並ぶ前菜は、かぼちゃのペースト、魚の竜田揚げにオクラのソースなど、旬と遊び心が詰め込まれた一皿。

 メインは三択。牛・豚・鶏。ChatGPTに相談すると、「ひとみさんはステーキがいい」と言われ、私は牛肉。(笑)母は「じゃあ私は豚で」と、豚の西京焼きを選んだ。これが、結果的に大正解。香ばしい焦げ目に、西京味噌の甘みがじんわり効いて、ごはんが止まらない“職人の味”。最後は、出汁をかけて味変もできる。

 小さなココット鍋のような器に盛られた丼は、見た目も可愛く、満足度は完全に予想超えだった。デザートは、パンナコッタのような滑らかさに、マーマレード。「これは、お値段以上だね」と、母もにっこり。


 温泉は、強羅らしく硫黄が濃く、入った瞬間に「あ、効く」とわかるお湯。浴場は大きくないけれど、最大6名までの入場制で、入口には「あと何人入れます」が、木札で静かに物語る。

 湯上がりには、小さなガラス瓶のミニソーダと、色とりどりのフルーツアイスバーがセルフで用意されている。どれにしようか迷うその時間さえ、すでに演出の一部。

 このさりげなさが、この宿らしい。

 部屋に戻って、ソファベッドに腰かけ、観たのはジョニーデップの『Dead Man』。母は、私よりも断然ジョニー・ディップ好きだから、このCoolな映画を2時間観ることをすんなり了承した。

 白黒の映像、Neil Youngのギターの反復音、魂が三途の川を渡っていくような物語。3日前に「Highly Recommended」と英会話の先生に進められた1995年の映画だ。これを「超オススメ!」と言ってしまえる人の感性は間違いなく高いだろう。

 だって、難解な部分はすべてChatGPTの即席解説をつけることにした。母は最初「AIって機械でしょ?」と言っていたのに、だんだん解説の的確さに興味を持ち、最後には「使い方を教えてほしい」と言い出すほど。80歳の好奇心は、まだまだ現役だった。


 翌朝の朝食はビュッフェスタイル。驚くほど“和”がない。スクランブルエッグ、ソーセージ、サラダ、パン、シリアル、ヨーグルト。そして、コーヒーがとても美味しい。

 私たちはソファ席で朝食をとった。「テーブルじゃなくて、ソファで朝ごはんって、なんか贅沢だね」家でもソファー席でのブレックファーストをしたくなった。

 伝統的な箱根温泉旅館とはまったく違う。至れり尽くせりでもない。けれど、必要なものだけが、ちょうどよく整っている宿だった。そして不思議と、80歳の母も、このシンプルで静かな空気を、ちゃんと楽しんでいた。


 急に決まった旅。

 ChatGPTと一緒に決めた宿。

 北欧のような箱根の夜と朝。

 ピンときたものは、未来からの合図。


 続きは、箱根美術館編へ。