在り方が咲くとき。「花はいけたら、人になる」

 今週の『読むサプリ』メルマガでは、2019年くらいに学んでいた「華道」について、今になって分かったことを言語化しました。編集後記的な感じで、ブログ記事に残します。

2019年ごろ、私は「華道」を学んでいた。

けれどあの頃の私は、「やり方がわからないから、生けられない」と思い、

なかなか納得できない時間を過ごしていた。

「花は生けたら、人になる」──家元のこの言葉に、

「深いな…」と感じた記憶はあるけれど、

意味はわかったようで、どこか霧の中だった。

 

教えてくれない師範への不満も少しあった。

でも結局のところ、それは*“わかり方”が違っていたのだと思う。

 

同時期に通っていた女優さんは、

なぜか習得がとても早かった。

最初は「感覚が鋭いからかな」と思っていたけれど、

今ならわかる。彼女は「在り方」で掴んでいたのだと。

私も今、50代になった。

「教える」よりも、「在り方で接する」ほうが本質的だと思うようになった。

実際、コーチとして関わる中でも、

真に人が変わるときというのは、

やり方ではなく、“在り方”が整ったときではなかったか?

 

もちろん、「わからないことが明確になった」と喜ばれるセッションも多かった。

けれどそれは、表層の波──問いに対する答えにすぎない。

深い変容は、やはり存在そのものの波動でしか起きないのだと思う。

 

たとえば、思春期を迎えた姪たちとの関わりのなかで、

私は何度も何かを教えようとしては、反発された。

子ども扱いしても怒られ、大人扱いしても怒られる。


そしてある日、ふっと訪れた。

「もう何も言わない」が最適解になる瞬間。

そのとき、私の内側で静かに何かが咲いた気がした。


振り返ると、それは華道の師範が私にしていたことだった。

そして映画『ベスト・キッド』のミヤギ師匠が

ずっと主人公に示していたことでもある。


私はようやく、あの人たちのいる場所に少し近づけたのかもしれない。


花は生けたら、人になる。


そして今の私は──

自分自身もまた、生けられた存在になりつつある。


問いを超えた場所で、私は静かに問う。

これから私が生けるのは、いったいどんな人なのだろう?