『ANORA アノーラ』鑑賞レビュー(ネタバレあり)

 第97回アカデミー賞で5部門を受賞した『ANORA アノーラ』を劇場鑑賞してきました。予備知識なしで鑑賞したため、冒頭のストリップシーンには少し驚きつつも、物語に引き込まれていきました。シンデレラストーリーかと思いきや、突然の事件が発生し、ドタバタコメディーへと展開。そして最後には涙を誘う――まさに盛りだくさんの108分でした。

 出演者の中で唯一知っていたのは、『コンパートメントNo.6』で強面のロシア人を演じたユーリー・ボリソフ。彼の存在感は本作でも健在でした。イヴァン役のマーク・エイデルシュテインは、「ロシアのティモシー・シャラメ」とも評される若手俳優で、本作が初の英語作品だったそうですが、危うげな21歳の青年を見事に演じていました。

 そして、主演のマイキー・マディソン。25歳という若さで主演女優賞を受賞した彼女の演技は、まさに圧巻。感情の揺れを繊細に表現し、作品全体の魅力を引き上げていました。全身全霊で挑んだ演技は、まさに体を張った渾身のもの。主演女優賞を受賞しなければ報われないほどの迫力でした!

あらすじ:

​『ANORA アノーラ』は、ニューヨークでストリップダンサーとして働くアノーラ(マイキー・マディソン)が、ロシアの新興財閥の御曹司イヴァン(マーク・エイデルシュテイン)と出会い、1週間1万5000ドルの報酬で「契約彼女」となるところから物語が始まります。​二人は贅沢な日々を過ごし、ラスベガスで衝動的に結婚します。

ラスベガスで衝動的に結婚!

 21歳のロシア人大富豪の御曹司であるイヴァンは、アメリカ人と結婚すればロシアに戻らずに済むと考えていました。彼が暮らすニューヨークの豪邸は、もちろん両親の所有です。

 そんな中、2週間のバカンスの間にストリップダンサーのアノーラと急接近します。彼女もまた、イヴァンが大富豪の息子であることに驚きながらも、次第に心の距離を縮めていきました。とはいえ、どこかで「裕福な客との出会いが、シンデレラストーリーにつながるかもしれない」という期待があったのかもしれません。そして、彼女はその絶好のチャンスを逃さず、しっかりと掴み取ることになります。お互いの両親には、一切知らせることなく――。


ドタバタ劇の幕開け

 当然ながら、御曹司の息子の結婚はすぐに親に知られることとなり、ここから事態は一気に急変します。真実の愛を信じていたアノーラでしたが、イヴァンの父親が送り込んだ3人の"お目付け役"と対峙することに。

 しかし、彼らに屈することなく、アノーラは体当たりで立ち向かいます――これがもう、とにかく強い!叫び、暴れ、全力で抵抗し……ついには口をスカーフで塞がれるほどの大暴れ。圧巻の迫力で繰り広げられるこのシーンには、思わず息をのんでしまいます。

 そして、このあたりから、イヴァンがただの御曹司ではなく、とんでもないトラブルメーカーであることが次第に明らかになっていきます。こうして、アノーラとイヴァンの関係は、甘いシンデレラストーリーとは程遠い、想像を超える波乱万丈な展開へと突き進んでいくのでした。


『ANORA アノーラ』に込められた社会的テーマとイゴールの存在

 本作には、単なるシンデレラストーリーやドタバタ劇にとどまらず、深い社会的テーマが織り込まれています。その象徴ともいえるのが、イヴァンの両親が送り込んだ“お目付け役”のひとり、用心棒のイゴール(ユーリー・ボリソフ)です。

 『コンパートメントNo.6』でも印象的な演技を見せたボリソフですが、本作では、他の登場人物とは異なる時間の流れと視点を持つ存在として描かれています。アノーラに噛みつかれながらも冷静に“用心棒”の役目を果たしつつ、どこか彼女の心の支えとなるような場面が随所に散りばめられています。

 たとえば、寒い時にさっとスカーフを差し出したり、彼女の気持ちを察して静かに飲み物を渡したり、飛行機の中で眠るアノーラにそっと毛布を掛けてあげたり――。彼の行動は単なる任務を超え、静かで温かい思いやりに満ちています。もしかすると、二人の間に恋愛感情が芽生えるのでは?と期待する人もいるかもしれません。しかし、個人的には、彼はただ純粋に優しい人であり、アメリカにいながら“アメリカ人ではない”アノーラと、どこか共鳴するものを感じていたのではないかと思います。

 この物語の中で、彼女にそっと寄り添う存在が一人くらいいてもいい――そんな役割をイゴールが見事に担っていました。彼の優しさは派手ではありませんが、相手を思いやる静かな温もりがあり、それが観客の心にもじんわりと染み渡ります。


アノーラにとっての「安心」とは何だったのか

 終盤のあるシーンで、豪邸のリビングにアノーラとイゴールだけが残る場面があります。ストリッパーとして働く日々の中で、アノーラは本能的に「男性=自分に何かを求める存在」と警戒してしまう。しかし、イゴールは一切その気配を見せない。それは、彼女にとって、本当の自分をさらけ出すことができた瞬間だったのかもしれません。


ラストシーンで泣かされた理由

 そして迎えるラスト。結局、イヴァンは母親の言いなりになり、結婚を白紙に戻してしまいます。本当に愛し合っていたはずなのに、彼は母の言葉を素直に受け入れ、あっさりとアノーラの手を離してしまいました。アノーラも最後には、それが最善の選択だと理解していたものの、掴みかけたものを手放す喪失感と、「頑張りすぎていた自分」に気づいてしまった虚しさが、静かに心を締めつけます。

 何かを手に入れるために必死に頑張る気持ちは、誰しも経験があるはずです。でも、その頑張りを見守り、「そんなに無理しなくてもいいんだよ」とそっと寄り添ってくれる存在がいたなら――。

 最後の最後で、言葉ではなく、ただその想いを受け止めてくれたのがイゴールでした。まさか、ここで涙を誘われるとは思いもしませんでした。

 エンドロールでは、ただワイパーの音だけが響き、観客はその余韻に浸るのです……。