映画『Michael』の中で、とても印象に残ったシーンがあった。
マイケルがプールに浮かびながら、ただ空を見上げている。
(GPTに生成させたら、プールなのに服を着ている人間になってしまった 笑)
兄弟が不思議そうに聞く。
> 「何してるんだ?」
するとマイケルは、こんな趣旨のことを答える。
> 「僕がここでアイデアを受け取らなかったら、神様がプリンスにあげてしまうかもしれない。」
観た瞬間は、思わず笑ってしまった。
でも後から考えると、この一言には、マイケル・ジャクソンというアーティストの創作哲学が凝縮されている気がした。
マイケルにとって音楽は、「作るもの」ではなかったのかもしれない。
どこかにすでに存在していて、自分はそれを受け取るだけ。
そんな感覚だったのではないだろうか。
実際、マイケルはインタビューでも、
> Music is already there.
> 音楽は、すでにそこにある。
という趣旨のことを語っている。
そしてさらに、
> I just go into it and grab it.
> そこへ入って、取り出してくるだけ。
とも話している。
この言葉を聞いたとき、私はジョー・ディスペンザ博士の教えを思い出した。
ディスペンザ博士は、まだ現実化していない未来やアイデアも、量子場には可能性として存在していると語る。
つまり、私たちはゼロから何かを作り出しているのではなく、すでにある可能性に意識を合わせ、それをこの現実に持ってくる存在なのだ、と。
この視点で見ると、マイケルのプールのシーンはとても面白い。
彼は、自分の内側を静かにして、まだ形になっていない音楽に耳を澄ませていた。
いわば、受信していたのだ。
そしてその受信感度を、彼は誰よりも大切にしていたのかもしれない。
「今、僕が受け取らなければ、神様はプリンスに渡してしまうかもしれない。」
この言葉には、天才同士のライバル意識もある。
けれど、それ以上に、
アイデアは自分だけの所有物ではない
という感覚がある。
メロディも、言葉も、ひらめきも、最初から「私のもの」として存在しているわけではない。
それは、どこか大きな場所に漂っている。
そこに誰が最初に周波数を合わせるのか。
誰がそれを受け取り、形にするのか。
その違いだけなのかもしれない。
だからマイケルは、夜中に曲が降りてきたら起きて録音した。
なぜなら、後回しにした瞬間、その音楽は別の誰かのところへ行ってしまうかもしれないから。
そして、その「別の誰か」として名前が出てくるのがプリンスだったところが、なんともマイケルらしい。
同じ時代に、同じように音楽の見えない領域へアクセスしていたもう一人の天才。
マイケルにとってプリンスは、単なるライバルではなく、同じフィールドに耳を澄ませている存在だったのかもしれない。
私のMyGPTにこの話を聞いてみると、こんな解説をしてくれた。
マイケルが言う「音楽はすでにそこにある」という感覚は、ディスペンザ博士の言葉でいえば、「量子場に存在する可能性」と重なる。
曲は、まだ物質世界には現れていない。
けれど、可能性としてはすでに存在している。
マイケルはその可能性に意識を合わせ、感情と直感を通して受け取り、声やリズムやダンスとしてこの世界に変換していた。
つまり彼は、作曲家であると同時に、受信機でもあった。
この説明を聞いて、私はとても腑に落ちた。
もちろん、量子場や意識の話は、科学的にすべて証明されているわけではない。
でも、創造する人なら誰でも少しは分かるのではないだろうか。
自分で考え抜いて作ったというより、
「降りてきた」
「勝手に書けた」
「向こうからやってきた」
そんな瞬間がある。
文章でも、音楽でも、企画でも、人生の選択でも。
がんばって絞り出しているときには出てこないのに、散歩しているとき、お風呂に入っているとき、眠る直前、ふと力が抜けた瞬間に、それはやってくる。
マイケルにとって、プールに浮かぶ時間は、そういう状態に入るための儀式だったのかもしれない。
身体を水に預ける。
重力を少し忘れる。
空を見る。
思考をゆるめる。
自分という境界が薄くなる。
すると、どこかから音楽が近づいてくる。
音楽は、すでにそこにある。
マイケルはそれを信じていた。
そして、その「そこ」へ行く方法を知っていた。
私たちもきっと同じだ。
まだ書いていない文章。
まだ出会っていない人。
まだ形にしていない夢。
それらは、完全な無から生まれるのではなく、どこかの可能性のフィールドで、こちらを待っているのかもしれない。
あとは、こちらが静かになるだけ。
受け取れる状態になるだけ。
そして、受け取ったらすぐに形にすること。
それが楽だ。(笑)
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