角野隼斗とウィーン交響楽団——私にとっての新世界は、ラヴェルだった。

錦糸町、すみだトリフォニーホール。

ペトル・ポペルカ指揮、ウィーン交響楽団。ピアノは角野隼斗さん。

オーケストラの公演だから席はどこでもいいかな、と思い、いちばんリーズナブルな席を予約しました。

当日、席についてみると——3階席の最後列、ど真ん中。ホールのいちばん後ろです。

途中で階段の表示を見たら「6階」と書いてありました。80歳の母を、6階の高さまで歩かせてしまったことに、その時気づきました。少し申し訳なくなりました。

でも母は文句を言うどころか、

「まあ、面白そうね。どんな音がするのかしらね」

と言いました。

そうです。遠い席ではなく、まだ知らない音を聴く席。(笑)


森を見る席

実際に座ってみると、舞台はかなり下に見えます。演奏者の表情がはっきり見える距離ではありません。でも、これが思いのほかよかった。

音が直接飛んでくるというより、ホール全体に響いたものが上まで満ちてくる。近くで音を浴びるのではなく、空間ごと音楽を聴いているような感覚でした。

木を見るのではなく、森を見る席。

最初の曲、ドヴォルザークの序曲《謝肉祭》。6階の高さから見ると、オーケストラがひとつの大きな生き物のように見えます。指揮者の身体から波が起こり、弦が動き、管が鳴り、打楽器が空気を締める。

近ければ近いほどよい、というわけではないのだなと思いました。遠いからこそ、全体が見える。それもまた、ひとつの新世界でした。


水辺のラヴェルではなく、街のラヴェル

次に、角野隼斗さんが登場しました。

演奏されたのは、ラヴェルの《ピアノ協奏曲 ト長調》。

私はラヴェルが好きです。《亡き王女のためのパヴァーヌ》が本当に好きで、特にフジコ・ヘミングさんの演奏が好きです。《水の戯れ》も好きです。《ボレロ》の、一定のリズムが続きながら少しずつ楽器が増え音が膨らんでいくあの高揚感も。

昔は、自分はドビュッシーが好きなのだと思っていました。でも好きな曲をたどっていくと、「あ、これもラヴェルだったんだ」と、点が少しずつつながっていきました。気づけば、私の好きな音の奥に、ラヴェルがいました。

だから私は、ラヴェルを知っているつもりでいました。

水。光。静寂。遠くを見るような気品。そんな作曲家だと思っていました。

けれど、この日のラヴェルは違いました。

いきなり、パン、と空気を切るような音が鳴る。ジャズの気配がある。軽やかで、都会的で、少し洒落ている。

水辺のラヴェルではなく、街のラヴェルでした。

知っていると思っていた人に、まだ知らない顔がありました。


音を絵具のように扱う人

特に印象に残ったのは、ハープの音でした。

6階席の最後列にいても、ハープがよく見えて、よく聴こえました。光が細くほどけるような音が、あの高さまで届いてくる。音量ではなく、存在の密度のようなものが。

ラヴェルは、音を絵具のように扱う人なのだと思います。旋律だけではなく、質感を書く人。水の反射、光の粒、空気の揺れ——そういうものを音で描く人。

角野さんのピアノも、そのハープに少し寄り添っているように感じました。ピアノなのに、ハープに近づいていく。似ているけれど、違う。違うけれど、呼応している。

第2楽章は、長いピアノソロから始まる、静かな音楽でした。小さな音なのに、なぜこんなに届くのだろうと思いました。

言葉ではあまり覚えていません。ただ、音がよかった。その感覚だけが残っています。

でも、もしかすると、それで十分なのかもしれません。言葉になる前に、身体が受け取ってしまう音があります。今回のラヴェルは、まさにそういう音でした。


境界の上で遊ぶ人

角野さんのソリスト・アンコールも印象的でした。

マイクを持って登場し、ラヴェルがアメリカへ渡ったこと、そして反対にアメリカ人の作曲家がフランスへ渡ったことを話してくれました。そして演奏されたのが、ガーシュウィンの「パリのアメリカ人」より抜粋。コントラバス、パーカッション、トランペットの奏者たちと即興を交えながらの演奏でした。

まさにそのテーマそのもの——アメリカ人がパリへ渡った音楽を、ウィーンのオーケストラと日本のピアニストが東京で弾く。

クラシックのコンサートなのに、空気が少し開く感じがしました。「こうでなければならない」という枠が、ふっとゆるむ。でも壊しているわけではない。

境界を壊すのではなく、境界の上で遊んでいる。

角野さんの魅力は、そこにあるのかもしれません。正統でありながら、少し自由。その感じが、ラヴェルのこの曲ととても合っていました。


懐かしさを抱えたまま進む音楽

そして最後は、ドヴォルザークの交響曲第9番《新世界より》。

あまりにも有名な曲です。もちろん知っているつもりでした。

でも、実際に通して聴くと、少し不思議な気持ちになりました。特に、第2楽章。日本では「遠き山に日は落ちて」として知られている、あのフレーズ。

「新世界より」というタイトルなのに、どうしてこんなに懐かしいのだろう。新しい世界へ向かう曲のはずなのに、何度も過去が顔を出してくる。

進む。止まる。振り返る。また進む。

新世界とは、過去を捨てた場所ではないのかもしれません。過去を抱えたまま、それでも次の音へ進むこと。そういう場所なのかもしれない——そんなことを考えながら聴いていました。


格式ではなく、祝祭

オーケストラのアンコールは、ドヴォルザークの「スラブ舞曲 Op.72-2」、そしてJ.シュトラウスIIの「ポルカ『雷鳴と電光』」。

「ポルカ『雷鳴と電光』」が始まった瞬間、会場がぱっと明るくなりました。

ああ、クラシックってそうだった。静かに聴くものでもあるけれど、身体が勝手に反応するものでもある。格式ではなく、祝祭。

帰り道、もっと家の中でクラシックを流そうと思いました。


この夜の、いくつもの新世界

振り返ってみると、この夜にはいくつもの新世界がありました。

3階席だと思っていたら実質6階だった席。その高さから聴く、ホール全体の響き。クラシックの枠を軽やかに越えていく角野隼斗さん。知っていると思っていたラヴェルの、まだ知らない顔。

そして、ウィーンから来た音。

私は今、自分のEtsyショップでクリムトのバッグを扱っています。クリムトはウィーンの画家です。そのウィーンから来たオーケストラが、すみだトリフォニーホールで音を鳴らしている。美術と音楽と自分の仕事が、静かにつながっていくような夜でした。

知っていると思っていたものに、まだ知らない顔がある。

その発見そのものが、新世界だったのだと思います。

もしかすると新世界とは、まったく知らない場所へ行くことではないのかもしれません。知っていると思っていた世界を、もう一度、違う高さから見ること。

知っていると思っていたラヴェルに、新世界があった。そしてそれを見せてくれた角野さん自身も、新世界の人だった。

今回のコンサートは、そんなふうに響いていました。


Column|ラヴェルという作曲家

モーリス・ラヴェルは、ドビュッシーと並ぶフランス印象主義の作曲家です。《亡き王女のためのパヴァーヌ》《水の戯れ》《ボレロ》など、どの曲も「音の質感」を描くことに長けています。

《ボレロ》は1928年、バレリーナのイダ・ルビンシュタインの依頼で作曲されました。ひとつのリズムが最初から最後まで繰り返され、少しずつ楽器が加わりながら音が膨らんでいく——音楽史上でも類を見ない構造の曲です。初演直後から爆発的な人気となり、ラヴェル自身をおおいに驚かせました。

今回演奏された《ピアノ協奏曲 ト長調》は、ラヴェルがアメリカを訪れた際にジャズと出会い、その影響を取り込んで作曲した作品です。水辺でも静寂でもない、都会的で洒落たラヴェルがここにいます。

後から調べてわかったのですが、今回のプログラムでラヴェルが選ばれたのは、角野さん側からいくつか候補を出し、その中から決まったとのこと。角野さん自身「ジャズの影響が要所要所に出てくるので、自然に自分の色が活かせる作品」と語っています。クラシックとジャズの境界を自在に越える角野さんにとって、このラヴェルはまさに自分のための曲だったのかもしれません。

しかもウィーン交響楽団は、ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」を初演した歴史を持つオーケストラ。曲も、オーケストラも、ピアニストも、全部つながっていたのだと思うと、この夜の必然性のようなものを感じます。

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