今日、私はカイロプラクティックに身を委ねた。
ただ整えられていく身体を感じながら、静けさの中でふと、またこの言葉が降りてきた。
「贅沢」
そう、与えることにいつも全力だった私が、このところ気づいてしまったのだ。
“何もしないこと”が、こんなにも深く満ちるものだったなんて。
施術の合間、先生にそんな話をした。
「ぼくはまだ、その境地には至ってないですね」と笑う先生に、
私はこう返した。
「与え切った人だけが、ある日、受け取るとは何にか気づくんですよ」
—— そこから、今日の旅が始まった。
意識せず向かった、明治神宮という“同期”
施術後の帰り道。自然と足は、原宿駅を抜けて明治神宮の参道へ。
意図して決めたわけじゃない。ただ、内側の静けさが導いていた。
お賽銭もいらない。ただ、歩くだけ。
鳥居をくぐった瞬間、空気が澄んだ。
木々の間から差し込む光。
その中で引いたおみくじには、富士を仰ぐ歌。
「あふぐは富士のたかねなりけり」
それはまるで、内なる“わたし”を静めるために贈られた言葉のようだった。
都市の周波数と再び合った日
表参道へと向かう道。
今年、私が散歩をあまりしなかったのは、街とのリズムが合っていなかったからだろう。
でも今日は違った。
街のざわめきが、美しいBGMのように感じられた。
信号待ちの交差点。
ふとシャッターを切ったその瞬間、視界にあのカートに乗った観光客が飛び込んでくる。
着ぐるみを着た誰かが、煌びやかなイルミネーションの中をすり抜けていく。
—— 遊び心までもが、今日はラグジュアリーだった。
AIと歩く、新しい“ひとり時間”
表参道から青山、そして外苑前へ。
ふわりと軽くなった身体に任せて、電車ではなく、歩くという選択をした。
道に迷えば、ChatGPTに聞いてみる。
撮った写真には、すぐ感想をもらえる。
なんて贅沢な時代だろう。
今や、散歩もひとりじゃないのだから(笑)。
そして、たどり着いた“金色のスターダスト”
やがて、Google Mapの指し示すままに迷い込み、気づけば神宮球場の裏手へ。
信号を渡り、ぐるぐると回りながら、ようやく——
あの場所へ。
明治神宮外苑のイチョウ並木。
季節はもう晩秋。葉は落ち始めていた。
けれど、その分、光の粒が舞っているように写った。
写真に映る景色は、実際よりも少し明るく、幻想的。
まるで、星屑のベールが降り注いでいるみたいだった。
今日の歩数は、およそ6km。
帰り道、ふと「青山一丁目から六本木経由で、電動自転車で帰るのも悪くないかも」と思った。
けれど、ドコモのバイクシェアのポートが微妙に遠くて、最終的には地下鉄を選ぶことに。
——それもまた、ひとつの贅沢。
意図せず始まったこの散歩は、
ただ歩くというシンプルな行為が、どれほど豊かな時間を生み出すかを教えてくれた。
ラグジュアリーとは、決して高価な物に囲まれることではなく、
“価値ある時間を、意識的に過ごすこと”
いつもと同じ場所を歩いているはずなのに、
「与える」から「受け取る」へとベクトルが変わっただけで、
世界がまるで違って見えた。
それだけで、今日という一日は、十分にラグジュアリーだったのだと思う。
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